私の研究は絵画作品における「仮象」についてである。ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter 1932~)の「Schein(仮象=光)」、フランク・ステラ(Frank Stella 1936~)の絵画の「提示(Presentation)」、ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze 1925~1995)のプラトン論における「シミュラークル(見せかけ)」などにまたがり、絵画の「アウラ」や「強度」の問題に関している。
作品は抽象性を強め、光のゆらめきや重なり、織り成す色彩を表している。
北本真隆
-------------------------------
先の北本のテキストは、非常に潔く、私としてはそれはもっとも彼らしいと思うので敢えて別に、私の北本の解釈として書かせてもらう。
尚、北本のテキストに上がった人物の紹介は、内容に踏み込みたいため割愛する。
絵画とは2次元の画面に3次元を描き出すものであり、画家はその画面に奥行きを感じながら描いてきたということを前提としよう。
対し、北本は絵画を「画面にのったもの」として捉え、その奥に向う空間性—平面性—の問題において、リヒターやステラに通じている。この平面性とは、具象や抽象を問わず、描かれるそのもの、あるいは写り込むそのものは、表面で停止した画像に変換され、現存するそのものではないとするリヒターの「仮象」という考察。
また、ステラの規則化されたパターンの展開は、絵画の読み取りを妨げるための「単なる提示」の探求。
そして描く行為に移るとき、ジル・ドゥルーズのプラトン論による「シミュラークル」の問題がしっくりくる。「イデア(本質)」、「コピー(複製)」、「シミュラークル(見せかけ)」の対比において、その本質を掴むことが、北本の抽象性を強めたことを意味するところだ。惹き付ける本質のみ、自身を通して落とし込んだ結果を、北本の作品に見る。
まさに光を見た者が捉え描く光が絵画における「アウラ」なのだ。ベンヤミンが述べるように一過性に於いてのみ強度を得る。
またリヒターは日記に以下のように述べている。「ただ描きうつしている間にも、なにか新しいものが勝手につけ加わってくるのである」
私的になるが、物事を見る位置について、この感覚に非常にリンクした言葉があり、それを紹介したい。数ヶ月前に大塩平八郎の「大虚に帰す」についてのとある講話文に出会った。大虚すなわち宇宙なのだが、例えば、「見る」行為には「見よう」とする意志がそこにある。その意志とは欲望のことであり、それは物事をありのままに見てはいない行為となる。その本質は、偏りや囚われといったフィルターを払った、まさに在るがままであり、そして大虚とは、そこに広がる世界との関係性を見出すことではないだろうか。禅におけるところの止観も同様に思う。
話を北本に戻せば、彼の絵画もまた、その精神的位置から捉えた「光のゆらめきや重なり」なのだろう。そこにある光、色の混在そのものすべて....。ありのままをありのままに見ること、とても当たり前に聞こえるが、それは実に達観した位置なのだと考える。
(金田みやび)