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-10人の美術家たち- vol.3
2011.1.15(sat)-3.02(wed)
12:00-18:00木曜休館

扇田克也   
OHGITA Katsuya

樫尾聡美  
KASHIO Satomi

北本真隆  
KITAMOTO Masataka

河野迪夫  
KONO Michio 

児玉賢三
KODAMA Kenzo


藤原絵里佳 
FUJIWARA Erika

松永敏   
MATSUNAGA Bin

村瀬貴浩   
MURASE Takahiro

山村慎哉 
YAMAMURA shinya

山室淳平  
YAMAMURO Jumpei
扇田克也 / 造形
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森の中で霧に包まれる、やわらかくもやもやとした感覚。そのかたち。扇田の制作は、その感覚を造形する粘土の形成からはじまる。思う姿を追いながら、イメージを手の中から生み出す作業は彼の仕事の中で最も時間を要する場面である。それを石膏で型取りした後、ガラスが炉の中で、扇田の手の跡をなぞるようにゆっくりと収まってゆく。
樫尾聡美 / 染色
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connection—モチーフから次のモチーフへ。それはまるで弾むように旋律を奏でてつながり広がる。この配置されたパターンはシルクスクリーンによるものだが、樫尾はあくまでも大量生産を目的とせず、その発泡する樹脂のテクスチャーを求めて技法を選択している。目の前に有るモノやコトから、ひとつずつ楽しい色付けをしながら歩んできた軌跡に通じる今回のテーマである。
北本真隆 / 油画
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北本にとっての抽象化は、イメージする場面をさらに完全化する作業である。一度、粉々にしたものをひとつひとつ回収していくように、また、あたりまえだと感じていたものを再確認するように、光、そのゆがみ、色彩の混在やそのものの形態を捉えていく。その対象に存在するすべて、例えば目に見えない部分や、言葉では言い尽くせないと感じたそのものまでを描く試みとして。
河野迪夫 / 金工
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昆虫や、他の生物などの形態から興味ある部分を抽出し美しいと感じるかたちを創造する。河野の繊細なラインは固くて冷たい金属のイメージを払拭するように柔らかい。この場合、思う線をつなぐのではなく残していく作業になる。丁寧に切りとり、削り出され、その細かな仕事の積み重ねが存在としての重厚感を際立たせる。
児玉賢三ファイバーアート
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かつての作品は、衣服の形態をそのワイヤーで組み上げ実物の草花を丁寧に取り付ける、それは時の経過により変化するその儚さと美しさの造形。その頃の、真鍮のワイヤーの役目はベースとしての控えめな選択だったのだが、植物が朽ちたあとに残るそれ自体の存在性に充分に言葉を見つける。表現は徐々にシンプルに変化を見せた。変わらない基本は、現実と非現実の曖昧な場所で、でも確かに存在しているということ。
藤原絵里佳 / 陶
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その感覚を体いっぱいに感じながら作り上げた手の内のものが、窯に入り、一度完全に手を離れる。親和性と委ねるしかない部分の対極。やきものは火の神様がアンカーだ。作り手の思いを汲み、1000度を超える中をくぐり抜けてきたそれらの作品。「湛える(たたえる)」という言葉が、焼き締めた陶に藤原が思う感覚である。凝縮した思いを満たし、すくっと天に向かう。
松永敏 / 日本画
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忘れられない一枚である。画面いっぱいの桜、それは「春鏡」と題された松永が”硝子”を描いた作品。透過と反射により、前後にある2つの空間が一平面に留まり、その硝子の存在が現れる。薄曇りの金沢の春の空に見るやさしいグレーと、厳しい冬を乗り越えた初々しいピンクが丹念な日本画の仕事によって、しっとりと画面を成す。
村瀬貴浩 / 造形
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鋳金は、溶けた金属を鋳型に流し込む。村瀬はその技法を取り入れながら近年は素材を樹脂に移行した。それは本人の求める素材の表情の面白さを表現するのに適しており、その温度を持ったものが流れ込むときに見せる留めたい一瞬を可能にする。そして表面に付着させた鉄や銅の粉末が、次に、時間とともに変化する。それは一度止まった時が再び動き出し、細かな粒一つ一つが金属の記憶を取り戻したかのようにも見えるだろう。
山村慎哉 / 漆芸
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同じことをしても決して同じにならない。あたりまえのことだが、いつも山村作品を見ていて思うことである。まるで一輪の花がその存在を際立たせるような豊かな余韻を残す。先人から伝わる素材や技法を大切に継承しつつも、作り出されるその小さな世界は極めて現代的である。目で、掌のなかで、心で、自身が響くかたち。
山室淳平 / 油画
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夜空に虹が流れ、揺るがない日本の自然の象徴である富士。そして、はり巡らされるのは高速道路なのか世界の境界なのか。山室は実に軽快に嘘を遊ぶ。目に映るものの中から興味のあるものや関心のあるものを分離させ、画面を構成する訳だが、この写実力と怪しげに鮮やかな色彩選択も作用して、不思議な山室世界の創造となる。
100年後の骨董。そういう展覧会をしてみたいと3年程前に考えていた。「骨董」と言ってしまえば、なんとなく畳上の雰囲気だったり、掘り出し物的であったり、現代の表現からイメージに少々距離ができそうで躊躇してしまったのだが、思うところはこうである。
この時代に生きる作家たちから作り出されるもの、その背景にはかならず思いを持つ”人”がいて、言葉にはならないからこそ形にしようとする試み。日々何を思い、何と向き合い、何を果たしたか、その思考の形成に私は、いつも刺激され、何度も心を動かされてきた。同じ時代に生きる者として、近くで接する者として、私は「彼ら自身」を伝えていきたいと思うようになる。
100年後には「骨董」の観念も変わるだろう。もちろん確かめることは不可能ではあるが、確かにここに存在していた事実が今後を形成していく大切なプロセスになる。その真っすぐな気持ちを作品に向けるひとつひとつ、そして鑑賞者が汲み取ってくださるひとつひとつ、そんな多くの意識のやりとりが、集積していく。

                        ギャラリー点 金田みやび