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"束縛"からのベクトル
Bound to my Vector
2011.4.16(sat)-5.15(sun)
12:00-19:00 木曜休館
“束縛”とは? 辞書によるところは、しばり捕らえること。制限を加えて自由を奪うこと。いわゆる決まり事だったり、感情の温度だったり、世に対して、人に対して、何かと何かの間にはかならず生じるのがズレの意識、その比重の違いを埋めようとする圧力が 時に“縛られる”感覚となる。
今回、 この5人の作家に“束縛”について問いかけた。それぞれの解釈する“束縛”から めぐらせる考察は ベクトルの示す位置へ。
手の届かない場所に絵筆を置く事は出来ない。1人の人間が1万年生き続ける事は出来ない。この明白な「物理的限界」「時間的拘束」= “束縛”という「当然」があるからこそ表現(生きる事)は成り立っている。まして、こちらからアプローチをする対象ですら無いのだ。
「されるのも、するのも大嫌い。」だが、 “束縛”にどっぷり浸ることには憧れもある。なぜなら、そこには「する側」と「される側」当人同士にしかわからない秘密の匂いがするからだ。各々が自分の役割を理解し、受け入れたとき、それは倒錯と果てしない陶酔にまで及ぶ。
何気なく生活していたとしても、ふいに制約がやってくる。束縛されるというやつだ。にもかかわらず、束縛したかどうか、それが失敗したかどうかという証は、どれだけ探してもみつからない。そしてその束縛は、ふいに解消されたりする。そのようにして、 束縛は失敗される。
束縛は何かを生み出すときの糧。いつも何かに縛られているけれど、逃れられない束縛に、不自由さを嘆いても仕方ない。ちょっと見方を変えてみよう。 “束縛”って有効な手立てかもしれない。重力や温度に粘度、物質性。時間、概念・・。「受け入れる」それは何かを生み出す力になる。
束縛から逃れるために探した場所や、とっておきの手段も、結局は気づかぬうちにまた別の束縛を受けている。逃れても逃れても、やってくるのは次の縛り、別の縛り。それを『不快』としようか『快』としようか・・・。感じ方の基準値はやはり自分次第なのだ。