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2009年7月3日(fri)ー20日(mon)
12:00ー19:00 木曜休館
carré 2009。 carréとは仏語で正方形、平方の意。普段は大規模なパネルや、彫刻などの立体作品を中心に制作している若手作家たちが、今回は小さな15センチ角25センチ角、40センチ角のパネルの中に、自らの作品世界を作り上げます。大きさの制約、形の制約の中で新たに生み出される表現、そしてこれからの成長が期待される作家たちのいつもとは違った魅力を引き出すと共に、生活空間に気軽に取り込めるアートのおもしろさを感じていただければ幸いです。

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carré 2009
出品作家
 

伊藤未央
ITO Mio

伊藤幸久 
ITO Yukihisa

遠藤誠明 
ENDO Tomoaki

大泉佳広 
OHIZUMI Yoshihiro

大西佑治 
OHNISHI Yuji

岡田朋子 
OKADA Tomoko

樫尾聡美 
KASHIO Satomi

菊谷達史 
KIKUYA Satoshi

北本真隆 
KITAMOTO Masataka

河野迪夫 
KONO Michio 

小林寛人 
KOBAYASHI Hiroto

コフネコトモ子 
KofunekoTomoko

近藤恵介 
KONDO Keisuke 

阪井ひとみ 
SAKAI Hitomi

澤田有季 
SAWADA Yu-ki

庄野文平 
SHONO Bunpei

鈴木良平 
SUZUKI Ryouhei

高岡栄司 
TAKAOKA Eishi

高田裕大 
TAKATA Yudai 

武田雄介 
TAKEDA Yusuke  

寺谷亜沙未 
TERATANI Asami

中谷未来 
NAKATANI Miki

西康友 
NISHI Yasutomo

西佑子 
NISHI Yuko

長谷川清 
HASEGAWA Kiyoshi

林亜耶子 
HAYASHI Ayako

平松ちなみ 
HIRAMATSU Chinami

藤原絵里佳 
FUJIWARA Erika

廣瀬陽子 
HIROSE Yoko

松永敏秀 
MATSUNAGA Toshihide

明円光 
MYOEN Hikaru

村住知也 
MURAZUMI Tomoya

山崎夏美 
YAMAZAKI Natsumi

吉川菜津乃 
YOSHIKAWA Natsuno

脇谷内里絵 
WAKIYACHI Rie

山塙菜未
YAMABANA Nami

石川達紘 
ISHIKAWA Tatsuhiro
≥≥ carré 2008

金沢経済新聞掲載記事
アートグミ特集ページ掲載記事
伊藤未央 ITO Mio  ハコブハコブネ (25.0 × 25.0)
            パネル アクリル オイルパステル 紙 

 アクリルやクレヨンを使って無造作に描かれた画面、そこでは画材の質感が入り混じると共にコラージュの技法も見られ、原色を中心とした色彩は小さな正方形の中で入り乱れる。伊藤はまず好きな色の絵具を紙に無造作に塗りつけ、それをパネルに貼り付けて作品の土台を作る。そこから彼女は毎日画面に向き合い、その日、その時々で刻々と変化していく自分の感覚や気持ちを画面上に積み重ねていく。激しく絡み合う色彩や、下に見え隠れする無数の点や線によって、伊藤が一つの絵の前で過ごした時間が感じられる。直接作品に触れた時間だけではない。一つの画面の前に立って様々な思いを巡らせ、彼女が感情の変化を全身で感じとった時間もまた、大切な記録として絵の中に刻み込まれているはずだ。(山塙菜未
伊藤幸久 ITO Yukihisa  Etude pour ”La fatigue”「 ours en peluche 」 
              (20.0 × 20.0) テラコッタ

 伊藤は今回ゴシックロリータの格好をする女の子から作品の発想を得、立体人物像を制作するための習作を行った。まるでお姫様のように、非現実的なまでに過剰に装飾された洋服に身を包んで街を闊歩する女性たち。我々は彼女達を非常に大胆で人目を全く気にしない、極めて自由な存在だと思っていないだろうか。伊藤はこうした社会の中でいわゆるマイノリティーと見なされ特別視されている存在、もっと深く言い換えるならば、我々がそのイメージや見た目によって彼らの性格や内面までをも勝手に想像してしまう存在に注目している。そういった見た目とは裏腹に彼らが抱えているずっと複雑な感情ー"自由なだけ”じゃない迷いやとまどい、そして理想と現実のギャップに対する思いなどを表現しようとしている。(山塙菜未
遠藤誠明 ENDO Tomoaki  きりの実 (15.0 × 15.0) 
               岩絵具 水干 箔 色鉛筆 麻紙 染料 パネル

 遠藤はスケッチから作品を創りだす。スケッチと本画は彼の中で呼吸のようなサイクルなのである。日常のふとした発見や感動をスケッチを通して吸収し、それをはく感覚で日本画を制作する。どれだけ絵具をのせるのか、どれだけ紙の地を活かすのか、というバランスと葛藤しながら、彼は日本画の豊かな表情を探求している。常に作品と会話し、「筆を置こう」という瞬間を見つけたときに彼は制作を終えるのである。彼は、作品を創ることで様々なものと出会い、制作の中で作品に教えられ、それによって成長した彼自身が新たな作品を創る。互いに影響し合いながら、遠藤は作品とともに進んでいくだろう。(石川達紘
大泉佳広 OHIZUMI Yoshihiro  KIOKUSOUCHI (25.0 × 25.0)
                 アクリル

 骨董品の地球儀を眺めている時、または古びた絵本をめくり心惹かれる挿絵を見つけた時のような気持ちだ。ほこりを被った表面をそっと撫でると少し寂れた色彩がそこに現れる。この色彩は時間の経過だけでなく懐かしい匂いまでも感じさせてくれる。フレスコ画に近い技法で描かれた大泉の作品は、そのモチーフや画面の質感によって、夢で見たことがあるような少し現実離れした世界に連れていってくれる。このような感覚で彼の作品を見ているのは私だけであろうか。おもちゃのようなトラックや丸くこんもりとした木、白く輝く月が美しい。しかし美しいと感じる私の心に、絵の中で表現される細かなヒビや錆びは不思議と切ない印象をもたらし、そして幼い頃の哀しい思い出を優しい気持ちで思い返す時のような感情で、胸がいっぱいになる。(山塙菜未
大西佑治 OHNISHI Yuji   ghost painting (type 4) 雨をはらうと
                アクリル

 阪神淡路大震災をきっかけに、自分の「感覚」というものに対して問いかけ、考え続けてきた大西。彼は地震の際に体験した強い“揺れ”の感覚を、その後テレビで地震の映像を見た際にも同様に感じたという。自分自身は揺れていないにも関わらず視覚情報によって呼び起された身体感覚は、一つの感覚に対して同時に全く別の感覚を生じさせる共感覚に似ている。存在するはずのない感覚、それを幽霊のような感覚(=ghost sense)と呼ぶ大西は、曖昧な形態や染みなどの不確定な形態を描くことで、多義性のある、何かが潜んでいるかのような意味深な画面を作りだし、見る者のghost senseを呼び起こす。大西の絵を前にした私は、幼い頃仰向けで見つめていた歯医者の天井の染みを思い出し、あの時ghost senseを味わっていたことに気付かされる。(山塙菜未
岡田朋子 OKADA Tomoko  猫饅頭 (15.0 × 15.0)
                岩絵具 水干絵具 膠 胡粉

 これまで主に花や木をモチーフとしていた岡田が、植物と同様に最近着目しているのが動物である。以前は対象物の持つその美しさや迫力に圧倒され、モチーフにただ感情を囚われた状態で描いていた。しかし現在は特に二匹の動物を対で描き、その二つの対象物の間に生まれる関係性や繋がりを客観的な目線で捉え、そこに生まれる空気感を表現している。常に落ち着いた心で、対象物の美しさやその雰囲気をゆっくりと消化し、制作に取り組むという岡田。彼女独特の洗練された色彩感覚によるそうした空気感の表現は、モチーフが単体であっても少しも損なわれることなく、時間をかけ丁寧に仕上げられた画面からは、生き物たちのゆったりとした動性や息づかいが自然と滲み出している。(山塙菜未
樫尾聡美 KASHIO Satomi  たまごのもり (40.0 × 40.0 部分)
                布 発砲バインダー 染料

 「かわいい」。現代においてこの言葉は至る所で頻繁に、軽々とにされ、その意味するところも多様である。しかし本当の「かわいい」とは何なのだろうか。大量生産ではないかわいい、使い捨てではないかわい
いものづくりということに思いを巡らせながら、樫尾は日々制作に取り組んでいる。染色技法を用い淡いパステルカラーを主とした色使いで、水玉やチェック、ストライプ、その他無数の細かな模様が小さな画面の中で重ねられて絡み合う。押し合いへし合いしながらも、樫尾の感性によって次々と組み合わされた色や模様の全体像は、不思議に心地良くて見ていて飽きない。何よりも彼女の手による繊細で丁寧なものづくりは私に「かわいい」の意味を再考させ、その奥深さを感じるきっかけを与えてくれる。(山塙菜未
菊谷達史 KIKUYA Satoshi  うつくしい世界 (40.0 × 40.0 部分)
                綿布 油絵具

 菊谷の作品のモチーフは、日常生活を切り取ったものである。人間のしぐさや行為、生き物、建物、乗り物、場所など、生活の全ての中から魅力を感じたものを作品にする。描きたいものだけを描きたい。人物が描きたければ、その背景は切り取ってしまうこともある。油絵、墨、クレヨンなど、さまざまな方法により、描きたいものだけで画面を構成する。また、菊谷の作品には、「脱力」「ネガティヴ」の二つの要素が多く見られる。非常に身近なものをモチーフとしているが、モチーフを凝視せず、遠くから眺めているかのようである。その目線が時として、人間関係や世の中の矛盾など、シニカルな表現を生み出すのではないだろうか。(石川達紘
北本真隆 KITAMOTO Masataka  Rest Day (25.0 × 25.0)
                  キャンバス 油彩

 彼の主な作品は、人物を中心とした具象によって画面を構成するものである。近年では、その正反対とも思える抽象画の制作も試みている。緻密なデッサンと、油絵具の流れを感覚的に構成した抽象画。この二つのタイプの作品は一見すると、視覚的にかけ離れており、全く別の方向性を持った作品であるようだが、そこに込められているものの根本は同じものであると考えられる。抽象、具象という描かれ方の違いはあるものの、北本の作品には、彼の経験や見たもの、感情が凝縮されている。彼の作品には、潜在的な意識のように言葉では言い表せない表現を含め、彼自身の精神そのものが落とし込まれているように感じられる。(石川達紘
河野迪夫 KONO Michio   浮遊甲 (25.0 × 25.0)
                銅 真鍮 鉄
 
 昆虫の姿態がもつ、限りなく小さな、それでいて優美で繊細な美しさ。自然界の中でも、河野は特にこの昆虫の姿から引き出される独特なかたちに触れることで、自らの造形を確立してきた。ただ昆虫のかたちを真似るのではない。河野は様々な昆虫の翅や外殻、脚、触角などのイメージから、自分の最も美しいと感じるかたちを新たに創造していくのである。彼の制作におけるもう一つの重要な要素が、金属という素材である。硬く冷たい、無機質な鉄や銅を、昆虫のかたちと組み合わせ、金属の性質からは想像できないほど柔らかで儚げな表現に達している。材質や色を使い分けそれらを巧みに生かすことで、有機的な曲線を多用した繊細な表現の中に、自然界のもつ凛とした力強さをも感じさせる作家である。(山塙菜未
小林寛人 KOBAYASHI Hiroto  菱形No.2  (40.0 × 40.0 )
                  キャンバス 油彩

 現実世界に存在するほぼ全ての色彩を排除し、白という色のみを用いて描かれる小林の作品。まるで壁紙やカーテン模様のように、何のストーリー性も意味合いもない菱形が並んでいる。小林の作品には何が描かれているのか。対象の美しさに心を動かされた作家の衝動か、劇的な臨場感か、抽象的な表現の中に潜む深いメッセージか。そんなものは彼の作品からは微塵も感じられない。あらゆる要素をそぎ落とした小林の絵を前にすると、壁紙の模様のように普段は意識的に見ることのない菱形は、ただの模様とは少し違った見え方をしてくる。色彩に溢れた何かしら主張のある絵画を見る時のような感覚と、壁紙をぼぉっと眺めているような感覚とが混ざり合い、絵に対して新しい“見方”をしていることに気付くのである。(山塙菜未
コフネコトモ子 KofunekoTomoko  サボテンハイム (25.0 × 25.0)
                   アクリル 紙

 太陽の色、海の色、空の色や果実の色ー。大地に咲きほこる力強い色を用い、コフネコトモ子は見る者を圧倒するような、快活でエネルギッシュな作品を生み出す。色と色とが混ざり合い、絡み合い、ぶつかり合いながら、豊潤で装飾的な画面を作り出すのである。近年、アフリカや東南アジア諸国における文化や民族性というものに彼女は興味を持ち続けている。絵画の他にも、ボディぺインティングやアフリカンダンスから着想を得たパフォーマンスを展開し、原始的生活の中で頻繁に見られる身体装飾や、自然界の存在をダンスで表現するという行為を作品に取り入れてきた。そういった自然との密接な結び付きへの欲望と彼女の野性的で奔放な性格が、小さなcarréの中に渦巻いている。(山塙菜未
近藤恵介 KONDO Keisuke  朝から夜にかけて (25.0 × 25.0)
              岩絵の具 膠 水干 透明水彩絵の具 鳥の子紙

 「僕は近所のおじいさんにも伝わるようなモノを創りたいと思っている」限られた世代の中でしか通用しない理解や表現があり、コミュニケーションの限界を説く私の意見に近藤はこう答えた。 ”生きている”という失われた感覚を生活のなかに取り戻すために、対話の可能性を制限してはいけない。対象は自然界のあらゆるものであり、謙虚さが必要だと言う。それを表すかのように描かれた表象は、夕飯時その日一日の体験を家族と語りあうかのような素直さで構成されている。彼の作品に詩の美しいリズムを感じるのは、宇宙のダイナミズムと日常性が別々のものとされず共存しているからなのだろう。 (村住知也)
阪井ひとみ SAKAI Hitomi  シイ川さん家 (15.0 × 15.0)
                陶土

 柔らかな光沢を放つパステルカラーでまとめられた陶器に、幾何学的な模様が組み合わされ、絵本の中に出てくるようなかわいらしい世界が描かれている。まず始めに色のイメージを決めてから制作に入る阪井の色彩表現からは、時に愛らしく、時に寂しげな雰囲気が自然とたちこめる。彼女の作品における大きな特徴の一つが、きのこのモチーフである。ふっくらとした傘の形や、赤や紫といった幻想的な色を持つきのこ。そしてお伽話などにも頻繁に登場するこのモチーフが持つ不思議なイメージや、きのこの植物や生き物としての生命力をもまた阪井は表現したいと考えている。しかしながら、きのこにこれだけ並々ならぬ魅力を感じているにも関わらず、実は彼女、きのこが食べられないのである。(山塙菜未
澤田有季 SAWADA Yu-ki  forget me not (25.0 × 25.0) 
                パネルにフレスコ

 フレスコ画は、主に教会の宗教画によく見られる手法である。この古典的な画法は生乾きの漆喰の上に色を定着させるもので、暖かみ、深みのある絵を描くことが出来るものである。また、フレスコは漆喰が乾くまでの短時間に絵を仕上げなければならないという特徴も持っている。彼女は与えられた時間でいかに作品を創り出すかという緊張感を楽しみながら、刻々と状態が変化する画面と向き合っている。その変化が生み出す偶然性や独特の色合いをもつフレスコという技法によって彼女は、懐かしさ、優しさ、儚さというような情景を表現する。少女の幻を見ているのだろうか?それとも夢の中で出会ったのだろうか?澤田の作品はそのような夢うつつで、ノスタルジックな物語を想像させる。(石川達紘
庄野文平 SHONO Bunpei  アダバナ  (15.0 × 15.0)
               パネル 綿布 油彩

 彼の作品は人を中心に描かれている。最近は主に、「アダバナ」という一連の作品を制作している。人体に植物が根を張り、花を咲かせている姿は、人の内面を植物にたとえた人間の体の一部なのだろうか。人の想いが花となって現れているようにも感じられる。感覚的に描くというその筆致は、人、植物の生命力が息づいているかのように動きをもっている。黒い色の中から、赤、緑といった鮮やかな色がにじみ出るようなマチエールが美しくもあり、そのコントラストには毒々しささえも感じる。人間という存在に対する彼の想いが筆を伝い、さまざまな願いとともにアダバナを咲かすのだろう。(石川達紘
鈴木良平 SUZUKI Ryouhei  道 (15.0 × 15.0)
                和紙 岩絵具 水干 膠

 鈴木は、画面に二つの意識を持って制作をしている。一つは、岩、水など、対象とするモチーフの色や形を描き分け、その姿をいかに美しく描き出すかということを追求する意識である。もう一つは、パネルの上に存在する物質としての絵具、つまり物質の集合体として、画面からせり出す絵具の存在感を作り出す意識である。絵具の扱いとそれを和紙の上で活かすための技術の習得が難しい日本画において、一つの画面上でその二つの要素の行き来を楽しませてくれる鈴木の作品は、岩絵の具という素材を知り尽くした彼ならではの表現と言える。複数の要素をもつその画面は、美しさや存在感だけではなく、鑑賞者それぞれの自由な発想を引き出してくれるものである。(石川達紘
高岡栄司 TAKAOKA Eishi  あられ (25.0 × 25.0)
                アクリル絵具

 現在のような、人の顔を中心にした作品の原点は「怒り」の感情である。怒りを形にするために、頭にたんこぶのようなものをつけたのが始まりなのだ。怒りから始まった一連の作品も、現在では顔と様々な形のパーツを組み合わせ、あらゆる感情を表現しようと試みている。また、今回の出品作品のように、平面での表現にも興味を持っている。立体作品と違い、その作品の背景まで表現することができることに魅力を感じたのだ。作品は彼自身の感情そのものであり、その作品の一つ一つは、言葉や表情で自らを主張する代わりに彼のメッセージを代弁する、いわば高岡の分身のようなものではないだろうか。(石川達紘
高田裕大 TAKATA Yudai  きんぎょのふん (15.0 × 15.0) 
               紙本着彩

 生き物から出てくる様々な“動き”。以前から高田は、一貫して動物をモチーフとして取り上げてきた。それは時に素早く時に緩慢な、生ける物から自然と生み出される独特な動性を絵に与えてくれるからである。さらに今まではそうした動物たちの形と動きを借りて、高田は自分独自の色彩表現を求めていたが、近年はそれだけでなく、モチーフそれ自体が本来持つ自然の色を尊重し、その上で自らの色彩感覚や表現とどのように折り合いをつけていくかという課題を掲げている。数多くのクロッキーをこなしながら、興味深い動きや美しい色合いに心が揺れた瞬間、高田は絵筆をとる。彼の目が捉えた生き物たちのユニークな一瞬間は画面に留められ、永遠の生を与えられている。(山塙菜未
武田雄介 TAKEDA Yusuke  二つの木と顔 (25.0 × 25.0) 
                Oil on canvas

 武田の作品は、ドローイングを重ねる中で作られていく。ふと頭に浮かんだイメージや、日常の様々なところから得られる、ありとあらゆるイメージを、ドローイングによって自身に取り込む。そのモチーフも、人物や風景などの具象から、一見するとそれが何なのか判別しがたいものまで、実に多様である。その数多くのドローイングによって堆積したイメージを汲み出し、時には一瞬で描き上げ、また、時には幾重にも塗り重ねて作品が生まれる。それらの作品もまた、彼のイメージとして堆積され、彼の作品の世界は通常の概念を通り越した、無限の広がりをもっていくのだろう。(石川達紘
寺谷亜沙未 TERATANI Asami  ブルー・ライト  (40.0 × 40.0 )
                  和紙 岩絵具
 
 寺谷は近年、岩絵具という圧倒的な“色数”が存在する画材を使用する中で、その微妙に異なる無数の色彩表現を探求している。二枚の作品は青色のパネル、赤色のパネルというように同系色でまとめられている。彼女を“描く”という行為に向かわせているのは、まさに色の美しさであり、色と色とを混ぜ合わせて新たな色彩を生み出すのではなく、顔料のもつ本来の色合いとその豊富さをいかに見せるかを課題としている。青いパネルを見つめている時、そこに描かれた青という色彩の幅の広さに気付き、青がこんなにも豊かで多様なバリエーションを持っていることに気付かされ、驚かされる。たくさんの青の中の微妙な変化、無数にある青という色の一つ一つを捉えようと、私の感覚は研ぎ澄まされるのである。(山塙菜未
中谷未来 NAKATANI Miki  river (25.0 × 25.0)
                 パネル 綿布 アクリル

  身の回りでふと見つけた花や草木などの植物が、風に揺られてたなびく瞬間、幾重にも重なり合って有機的なシルエットをかたちづくる瞬間、光と影が心地良く調和した瞬間、中谷はシャッターをきる。そうして写真の中に納められた植物の瞬間的な美しさは、彼女の手によって一枚一枚選び抜かれ、パネルの上で再び重ね合わされて一つの作品が生まれる。毎日少しずつイメージを加え重ねていくという描き方は、まるで日記をつける感覚のようだと語る中谷。忘れかけている記憶を呼び起こそうとして、断片的で曖昧な記憶のイメージがふっと心の中をよぎる時のように、絵の中で重なり合ういくつものシルエットは、次の瞬間には風に吹かれて全く別の形に変化してしまうかのような儚さを感じさせてくれる。(山塙菜未
西康友 NISHI Yasutomo  silver (25.0 × 25.0)
               紙 塗料

 西の主な作品は金属による立体物である。現在は、資材としての金属の束の姿から、鉛筆の芯に含まれる金属の光の反射まで、素材の可能性を探り、新たな表現を模索している。そのような彼の作品は、生物が本能的に持つ「欲求」をテーマにしており、「空間を支配したい。」などの欲求を彫刻作品として表現してきた。今回はドローイングという普段とは異なった形態の作品を発表する。平面であり、限られたサイズであるという条件の中、素材の新たな表情を引き出すために試行錯誤されたこれらの作品からは、新しい彼の表現の一片が垣間見られる。これからの西の彫刻の制作の幅を広げ、影響をもたらす、大きな意味を持った作品となるだろう。(石川達紘
石川達紘 ISHIKAWA Tatsuhiro

 多くの作家と話し、見たもの、聞いたことを自分の中で解釈し、構成する。僕にとって、今回の文章はそのような作業によってできたものである。その中で、僕自身もどこかで見た言葉、聞いた言葉を蓄積し、それを自然に取り出し、文章にしていることに気がついた。それは、作家が日常のものの中からイメージを心の中にストックする感覚に近いものなのではないだろうか。そう考えると、今回の文章は、作家それぞれを述べたものであると同時に、僕の日常がにじみ出ているのかもしれない。仲間と酒を交え、美術について朝まで語り明かしたり、言葉を選び、悩みながら論文を書くといった、僕の生活の全てが文章を作り上げているといっても言い過ぎではないように思える。
  今回、carré展においての僕の役割は、作家の制作のコンセプトや彼らの思いを紹介することである。しかし、彼らと話をする中で逆に、僕自身の文章の表現を広げてくれるような、それぞれが持っているすばらしい言葉を紹介してもらった。そんな一人一人の言葉を大切にしながら文章を作り上げることは、僕にとって大きな力になったことはもちろんのことであるが、これらによって、少しでも作家と鑑賞者の距離を縮める手助けができれば、僕の大きな成果として、誇らしい気持ちになれるだろう。

西佑子 NISHI Yuko  ブリキの花園 (15.0 × 15.0)
          ブリキ 鋲 釘 布 故粉 岩絵具 墨 膠 針金 和紙 レース

 面白半分。大抵その言葉は良いイメージとして受け取られない。しかし西の「面白半分」はポジティブな表現である。彼女自身、日々の制作の中で、まじめさは半分くらいの方が面白い作品になると感じているようである。おそらく、楽しいという感情は、彼女にとって最も作品に反映しやすいものなのだろう。楽しさを抑えない、自然体の作品を提示することで、鑑賞者にもストレートに気持ちが伝わるのではないだろうか。彼女の表現手段である日本画の枠を超えて、面白そうなことはやってみる。今回の出品作品のような、錆びたり、焦げたり、でこぼこした金属ですら、絵画作品となり、彼女の遊び心が画面の上で活き活きと感じられる。(石川達紘
長谷川清 HASEGAWA Kiyoshi  ガス田Z (がすでんぜっと)
                  普通紙 鉛筆 色鉛筆

 画面に描かれている漫画のようなイラストや、切り貼りしたフェルト…。何だろうこれは、とその前を素通りする前にちょっと踏みとどまってほしい。私が長谷川の作品に出会う時、そこには常に謎があり、その謎を解明しようと長い間作品をじっと観察し、時にはその小さな仕掛けに気付いて大笑いすることもあれば、結局答えが出ずに悶々とした気持ちを抱き続けることもある。そんな長谷川の作品に振り回される自分が楽しくて少し悔しい。一度長谷川の作品の迷宮に迷いこむと、彼が謎を隠しながらも、一方ではそれを気付かせるためにそっと忍ばせた仕掛けにのめりこみ、頭を抱えてしまう。謎がふっと解けた瞬間、それは長谷川の作品を通して私の世界の見方が少しだけ広がり、変態した瞬間なのである。(山塙菜未
林亜耶子 HAYASHI Ayako  まどろむ (25.0 × 25.0)
                 油彩 オイルパステル
 学生時代の頃から、林が作品のテーマとしていることの一つに「ひきこもり万歳」というのがある。「ひきこもり」の人々への共感にも似た感情ー個人主義の蔓延している現代の世の中において他者との関係や距離感は曖昧で、自分が何とどうつながっていけばよいのかという、よりどころのない浮遊感を常に抱いていたという。またそういった自分の殻の中に閉じこもり、自分の感覚にひたすら対峙し向き合うことで気付くことのできる世界観とその豊かさは、彼女の作品から滲み出し、その目の前にささやかな広がりを見せる。今は社会人となり、多くの人々と日々関わり合いながら生きている林が、今回久々に自分の世界に没頭し、ひきこもるという感覚に喜びを感じながら作品に向き合った。(山塙菜未
平松ちなみ HIRAMATSU Chinami  水の記憶 (25.0 × 25.0)
                     油彩 パネル
 
 今回与えられた15センチや25センチといった小さな正方形という画面に対し、その大きさや形の制約を最大限に生かしていると感じられる作家の一人が平松ではないだろうか。何かを強烈に表すようなモチーフや、意味を深々と考え込ませるような重い要素がない。丸や点といった単純なモチーフが画面いっぱいに描かれているが、それはまるで木幹の表面や水の動きといった捉えどころのないものを、具体的でシンプルな形にぱっと結びつけたような軽快さを持っている。そうした画面故に際立つマチエールのおもしろさに目が魅かれる。この形と大きさ、さらにはこの作品が飾られる場所と状況を意識して制作した、と語る平松。単純な白壁の部屋の中に、心地良く調和するアクセントとなりそうな作品である。(山塙菜未
藤原絵里佳 FUJIWARA Erika  c-2  (15.0 × 15.0)
                 陶土

 小柄な彼女とは対照的に、普段の作品は大きいものが多い。それは、体を動かし、大きな作品を作ることで、自分で「作る」という実感が持てるからである。彼女の作品は主として焼き締めの陶器である。焼き締めの表面は窯の炎の偶然によって、素朴で優しい表情を見せる。彼女はその偶然を楽しみながら、山、船、家など、ぼんやりと景色を見ている感覚を作品にする。それはまるで、はじめからそこに有るような、どこか懐かしいような、いつかの景色を思い出させるような感覚を与えてくれる。今回の出品作品においても、彼女が創りだす多彩な土の表情を楽しみたい。(石川達紘
廣瀬陽子 HIROSE Yoko   花(ヒヤシンス)  (15.0 × 15.0)
                麻紙 故粉 岩絵具 水干絵具 膠

 色と形。この要素を何よりも大切にし、モチーフを選び出す。無理に画面全体を絵の具で埋め尽くすということをせず、地である和紙の素材や、下描きの鉛筆線一本の強さまでをも残すことがある。画面の中で最も効果的にきまる色と形を、そうした素材感を生かしながら模策するのだ。廣瀬はこう語る。「色を置く時、形を決める時、ドキドキする。スリルがある。このスリルはきっと、一人で世界を背負う緊張。なぜならこの時、私だけが鑑賞者だから」。作り手であると同時に、一番最初に作品と向き合う鑑賞者でもあるという事実が廣瀬を昂揚させる。彼女が取り上げる何気ないモチーフは、それが日本画で描かれていることもあってシュールな印象と意外性を伴っており、それが私の心に留まって忘れられないのである。(山塙菜未
松永敏秀 MATSUNAGA Toshihide 伊達眼鏡男とシロ (40.0 × 40.0)
                  雪肌麻紙 岩絵具

 絵画の平面性を目指し、それに即した画題やモチーフで制作を続けてきた松永の作風が大きく変わろうとしている。テーマは“縛(ばく)”。今回描いたのは、人間の手にぎゅっと抱えられ前を見据える猫である。10本の指でしっかり掴まれ身動き出来ない彼らは、かっと目を見開きもがき抵抗しているように見える反面、人間の手によって強く縛られている自分にまるで満足しているようにも見える。そして猫の背後に見え隠れする、意味深な視線をこちらに投げかける男と女。造形的美しさなどの描写から抜け出し、日本画による表現を試みるが故の物理的・精神的な拘束の中にいる自分を感じながら、様々な意味で縛り縛られることで生きている人間の性(さが)というものに着目した松永の、新たな表現世界が開かれる。(山塙菜未
明円光 MYOEN Hikaru  working (15.0 × 15.0)
              oil canvas panel
        
 普段から「部屋に飾りたい絵」を意識して制作しているという明円。誰もが見慣れているような親近感のあるモチーフが、単色の背景の上に二色使いで淡々と描かれている。一見フラットに見えるが、まるで写真を加工したかのように形と陰影の表現が妙にリアルだ。「working」ではサラリーマンの何気ない瞬間の仕草が描かれている。大勢の人間が入り乱れて動き回る雑多な光景の中で、明円は彼らをその平凡な風景から切り取り、小さな作品の中の一主人公にしてしまう。この作品のおもしろさは、サラリーマンというイメージにいかにもふさわしい表情、風貌、動きを捉え、余計な情報を一切排除した画面の上で、彼らの持つ“らしさ”や“〜っぽさ”をこの上なくシンプルで端的に見せてしまっている点ではないだろうか。(山塙菜未
村住知也 MURAZUMI Tomoya  タキオン (25.0 × 25.0)
                  ミクストメディア

 空気、無言の声。私たちの眼には見えない、感じられないものは確かに目の前に存在している。村住はそれらは、山頂から見る朝日、黄昏時の海、夢の中で姿を表すものだと考えている。そのような日常から切り離された世界でのその体験はおそらく、宇宙という大きい存在の中での自らの小ささを体感し、私たちに現実とは何か?私たちが存在する意味とは?と問いかけるものなのだろう。そして、私たちが日頃目にしている、感じていることが全てではないことを教えてくれるものであるのかもしれない。彼の作品は、このような眼に見えない存在を作品として可視化し、私たちに示そうと試みるものである。(石川達紘
山崎夏美 YAMAZAKI Natsumi  The virgin landscape (15.0 × 15.0)
                   樹脂粘土 顔料

 山崎は貝殻や石のような自然物を好んで作品の素材にする。それらは、彼女に拾われるまでにそれぞれの歴史があり、様々な情報を持っている。彼女はその情報、例えば貝殻の元の持ち主の、海の中での出来事などを「妄想」し、物語の続きを作品にするのである。その物語は、「想像」というより「妄想」という言葉がふさわしいほどに、飛躍したものである。彼女は素材を削りだして作品を作り出すことが得意だという。物理的には素材を削り出しながら、形を洗練していく。その過程の中で、彼女の膨らむ妄想によって精神的要素が加わり、作品は大きな存在になっていくのだ。(石川達紘
吉川菜津乃 YOSHIKAWA Natsuno  PG.mzc (15.0 × 15.0) 
                    木 アルミ缶 色鉛筆

 吉川は自身の作品を暮らしに密着したものだと語る。作品の題材となるのは彼女が普段の生活の中でふと見つけた何気ない愛おしさやかわいらしさといった、そんな小さな感動や驚きである。これまでに祖父母の家の台所の様子や、食べることや寝ることといった日常生活の一コマを、数種類の木をレリーフ状に彫り上げて組合わせるという手法で作品にしている。一つの素材に執着せず、材質も色合いも異なる様々な木を用い、また身近に手に入る貝殻や落ち葉さえをも材料とする。吉川の目を通して捉えられた自然の風景や人間の営みの一場面は、彼女の手によって一つ一つ選びとられ手を加えられた素材によって不思議なあたたかみを生み出し、私はその表面に思わず手を触れたくなってしまうのである。(山塙菜未
脇谷内里絵 WAKIYACHI Rie  16:00 (25.0 × 25.0)
                  パネル アクリル 鉛筆

 脇谷内の作品の中には、人間のような顔を持った奇妙な動物が登場する。様々な表情を浮かべる顔に角が生えていたり羽が生えていたり、得体の知れない動物の体を借りている姿は、一見滑稽な様に見えて笑えない。ほとんど物を描きこまない脇谷内の作品において、その奇妙な動物の顔は周囲の空虚さゆえに異常に目立ち、不思議とリアリティを感じさせる。彼女は、“目を逸らしても意識に残る作品”を作りたいと語る。現実にはありえない世界を表現しながらも、その中で一部分だけくり抜かれたようにぽっかりと浮かぶ、一度見たことがあるような誰かの顔。それはかわいらしいとはとても言えず、不気味な存在感をもって私に現実世界を振り返らせ、強く意識させるのである。(山塙菜未
山塙菜未 YAMABANA Nami

 いろんな作家に出会った。驚くほどはっきりと自分のスタイルやコンセプトを理解している人、何かをじっと考えながら口ごもってしまう人、美しくて詩的なたった五行の文章で自分のことを表現してしまう人など、様々なタイプの人たちに自分の作品について語ってもらった。ぽつりぽつりとこぼれ落ちる言葉の中には、私などが到底思いつかない力強い表現を含んだものや、新しい視点を与えてくれるようなものがある。時折、ものを作り出す彼らの目に映る世界観や思いつきの奇抜さは私を圧倒し、様々な色の眼鏡をかけたり外したりしながら、彼らの心の中を覗き込もうと苦心した。私の文章を読めば彼らの作品を隈なく理解できるわけではもちろんない。言葉に出来ない何かが宿っていてこそ、目に見え、手に触れ、心で感じることのできるアートの良さがあるのだから。ただ、自分の考えや思いを言語化するという作業は非常に難解であり、さらに言葉を発した瞬間にその一語の持つ重みというものにやっと気付く。言葉というのは、鑑賞者が作品をもっと楽しんだり理解しやすくなる糸口として機能するだけでなく、作家に対しても常に刺激を与えるものではないだろうか。制作の方向性を改めて考える機会を与えたり、今まで気付かなかった自分の個性や特徴を発見することにつながったりする。この言葉というものに振り回されたり、また逆にそれを邪険に扱ったりしないでもらえたら、と思う。自分自身から発する言葉と同様に、鑑賞者の言葉というのもまた、時として作品を作る上で大きな自信を与えてくれたり、あるいは転換を促してくれるものだからだ。