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2010.1.16(sat)-2.28(sun)
12:00-18:00木曜休館
adagio — 心地よい出会い — によせて
ギャラリー点 金田雅
ある時出会った人の「見方」にとても興味があった。
展示された美術作品を前に、様々な想像をそこから巡らせているのだろうか。そのものと対話しているのだろうか。私は、その作品とその人との間に何か交流している空気のようなものを感じていた。
その人。金沢美術工芸大学芸術学准教授の山崎剛さんである。博物館学芸員と文化庁の文化財調査官を経て、専門は工芸分野を中心とする日本美術史研究だが、それ以前にその気持ちの部分でまず作品に対面していた(ような気がして)、聞いてみたくなった。この展覧会に一筆をお願いしたのは、どんな楽しみ方をしていたのか知りたいと思ったからである。
開廊して15年になるが、まだまだ美術品に関しては受け身の方が多いように思う。作家の意図するところ、例えばその技法やコンセプトなどを知識的に理解することが作品の見方だと言われれば納得もするが、もっと勝手な観賞の仕方があっても良いように思う。作品との出会いによって心を動かされる、その様子が作家にとっては何よりも嬉しいのだから。
感じること。展覧会「adagio — 心地よい出会い —」は、「鑑賞者の感じ方」を主体としている。
そのための空間、私はこの5作家の作品を紹介しようと思う。
扇田克也のガラス。初めて彼の作品に出会ったのはもうずいぶん前のことになるが、それは彼の代表作ともいえる「HOUSE」が登場する以前、母が所有していた器の形状をしたオブジェだった。儚げでありながら強い、惹き付ける青の作品は、いつまで見ていても私を飽きさせなかった。彼の作品を通してあらためて意識させられる「光」というもの。それは実に心地よく、包み込んでくれるかのように穏やかだ。
畠山耕治の金属。青銅を鋳造したその表面を彩るのは、「作家の意識と素材の意識」と畠山さんは言う。強い彼の意志が記憶されているかのように言うまでもない存在感を醸し出す。彼のパブリックコレクションのリストにデンマーク王室とあるが、現地での展覧会をご覧になられた女王陛下が直接所望されたと聞いている。それだけの作品が語る力に納得してしまう泰然自若な風格がある。
山村慎哉の漆。彼の漆芸における表現のバリエーションは実に多様である。その豊かな心の引き出しから「美」の視点においてセレクトされていく形態と加飾の世界。それぞれの技法で常に一定した息づかいが刻まれているような安定感は心地よく、美しく悠然たる世界が掌中でひろがって行く。
藤原絵里佳の陶。焼き締めた陶の肌は炭化焼成により墨色になる。「ぼうっと景色を見る感じに映ってほしい」と彼女は言う。じわじわと存在を現してくるような、そしていつまでも忘れられないような、おおらかでたおやかな表情。常に前向きで、そして潔い彼女の制作姿勢にこれからの可能性を感じる。
そして金田和子の墨。墨がしみ込んだ厚みだけのこの平面作品から、ある時、ぐっと奥行きを感じた。墨で書き、そしてまたその上に墨を置く。この行為と時間の堆積が、紙の表層に独自の風景を生み出す。そこに言葉にはできない、まさに肌で感じてきた彼女の精神の写しを見ることができる。
創る行為は「気」を込めること。
形そのものを追いながら、常に見えないものを心に残して行く。
そしてまた、生み出された作品は、人と触れ合うことで、その人それぞれの「感じた気持ち」が込められ、より存在を増していくように思う。
この唯一無二の作品と出会い、人と作品が同じ空間を共有するということ。
これからも、心地よい出会いを見つめていたい。
もう少し作品に近づくために・・・
文 = 山崎 剛
Ⅰ
私はよく展示ケースのガラスに顔をぶつける。先日もリニューアルオープンした根津美術館で仏像に近づこうとして痛い目にあった。それは床の面から天井付近まで一枚のガラスがはめられた、いわゆる壁ケースで、学芸員の方に「ぶつかる人、多いでしょう?」とたずねたら、「だからガラスの前に結界があったでしょ!」とのお答え。私の目にはガラスも結界も映らなかったのである。
これ以上近づいてはダメ、というラインを示す結界を越えたり、展示ケースのガラスに顔をぶつけることは20代半ば頃からの悪い癖である。最初の現場はルーブル美術館だった。ロココ様式のフランス王室家具を見ていて、そこに日本製の部材が使われているのを発見し、漆塗りの技法を見極めたくて身を乗りだしていると、警報が鳴り警備員がやって来た。よほど挙動不審だったのだろう。そのあとしばらく私は監視されていた。
もちろん通常は、いっぱしの研究者として事前に作品の調査を依頼している。でも出会いは突然、気まぐれに訪れるものだ。そして、近づきたいという欲求におそわれる。それも作品との距離10㎝以内に近づきたいという欲求に。だから、私はいつも高倍率の単眼鏡を持ち歩いている。美術史学者必携のこの小道具で、展示ケースの中に、あるいは結界の向こうに進入して作品の細部を見るのである。
Ⅱ
私は作品の細部を見るのが大好きだから、古美術に限らず、現代美術の展覧会に行くときも単眼鏡を持参する。現代の作品でもガラスケースの中に展示されることがあるし、結界のロープが張られることも多く、たとえ展示台の上に作品がそのまま置かれていたとしても、さすがに10㎝以内の距離に顔を近づけると監視員の方をハラハラさせてしまうので、少し離れて単眼鏡で細部をのぞき見る。
美術倶楽部などでの古美術品の売り立てやギャラリーでの個展に行くときは、単眼鏡に加えてルーペを持参する。書画骨董と現代美術を一緒にするな、とは言わないでほしい。私にとってはどちらも作品を見る大切な機会である。大美術館とは異なり、美術商や作家、ギャラリストに声をかけることができるから、許可を得ることができれば顔を近づけて、ルーペで細部を拡大し、ときには触って素材や技法などを観察する。
ギャラリー点の金田みやびが毎度のように目撃する私の挙動は、おおむねこういう性質によるものである。正面から作品全体を眺めたあと、まわりをウロウロと歩き、背伸びをしたりしゃがんだり、やがて息がかかるほどに近づき、いろいろな角度から舐めまわすように視線を動かしたあと、また距離をとって全体を眺める。これを何度か繰り返すさまは、ずいぶん奇妙で不思議な挙動に見えることだろう。
Ⅲ
昨年の暮れ、企画展「adagio-心地よい出会い-」を準備するギャラリー点を訪ねて、出展する5名の作家、扇田克也、金田和子、畠山耕治、藤原絵里佳、山村慎哉の作品を見た。扇田はガラス、金田は墨、畠山は銅、藤原は陶、山村は漆、いずれも真摯に素材と向き合う作家たちである。すべての作品が揃っていたわけではなく、企画者の金田みやびが会場設営のプランを模索していた段階だったが、畠山作品のいくつかは、すでに居場所を得たかのように壁や展示台の上に設置されていた。
気恥ずかしいけど、私の挙動の内面を垣間見ていただくために、ひとつの典型として、展示台の上の畠山作品2点を見ていた約30分間を概説してみたい。
まず全体を眺める。板状の四角い立体造形・・・ 立ち上がる板あるいは壁・・・ 鋳造された青銅の四側面・・・ 黒〜茶〜緑、黒〜茶〜赤・・・ 触媒作用による化学変化・・・ 腐食/装飾、景色/文様・・・ 青銅の輝きと研磨の痕跡・・・ 。心のなかでブツブツとつぶやきながら作品のまわりをウロウロしていると頭の中で検索が始まる。日本に金属の造形が登場した弥生時代の早期、紀元前4世紀から現代に至るデータベースの検索である。
はじめに想起したのは東大寺の国宝、金銅八角燈籠。天平勝宝4年(752)に大仏の開眼供養が行われたころから大仏殿の前に立つこの燈籠が、保存のために解体修理されたとき、監督者の一員として調査したという幸せな経験があり、経年劣化に耐えてきた青銅の鋳肌のさまざまな表情や質感が目に焼き付いていて、ことあるごとに思い出す。金銅八角燈籠・・・ 経年と古色・・・ 黒〜茶〜緑・・・ 緑青錆・・・ 腐食生成物・・・ 硫酸塩系/塩化物系/炭酸塩系・・・ 環境要因と人為・・・ 。ブツブツと小難しいことを考えながらすぐに次へ。大仏の台座の連弁、二月堂本尊の光背などなど、東大寺だけでもキリがなく、まだ天平かぁ、と自分につっこみを入れつつ検索は現代美術までひろがる。ときどき日本から朝鮮半島、中国、さらに東洋から西洋へ飛び、素材は金属にとどまらない。この間、約30分、欲求のままに近づいたり離れたりを繰り返していた。
かならずしも時代順に想起するわけではない。天平のあとは一気に江戸へ。黒〜茶〜赤・・・ 銅の赤・・・ 棹銅・・・ 。棹銅とは、江戸時代に製造された輸出用の銅のインゴットのこと。布をはった木枠の鋳型を水中にしずめ、その木枠に銅を流し込むという独特の鋳造法でつくる。素材が潜在的に持つ材質的特性を顕在化させること、その顕在化を「誘う」技術によって促進し生み出される色を「誘色」と名付けた村上隆の分析によれば、棹銅の表面を覆う赤は、鋳造過程で形成された亜酸化銅の薄い膜の色、銅から引き出された誘色の赤だという。畠山作品を見ていた私は、住友史料館にある江戸の棹銅の顕微鏡写真を思い浮かべていた。黒茶けた錆びがにじむ赤い表層を。やっぱり私は細部が大好きだから、作品への視線と想起するイメージは常に細部へと向かう。
Ⅳ
私は中学3年生のときに生まれてはじめて美術館へ行った。美術の授業の宿題のためである。週末に各自が兵庫県立近代美術館の展覧会を鑑賞し、作品についての感想文を書く宿題だったので、ある一双の《屏風》の前で約30分、立ち止まって絵を見続けた。でも、感想文は書けなかった。数日後、遠足で国立民族学博物館へ行き、アフリカ部門の展示室で、ある部族の勝利の証だという《生首》を見た。展示の情景からミイラ化した細部に至るまで、見ることによって目が受けた心地よい刺激を今でもおぼろげに覚えている。家に帰って感じたことを母に語り、母を誘って再び博物館へ行き、もう一度、ゆっくりと見た。これが私の頭の中のデータベースに入力された第1号である。
大学の卒業論文以来、私はこれまで、おもに工芸分野を中心とする日本の古美術の歴史を研究してきた。だから私の頭の中のデータベースは古い時代、厳密に言えば20世紀初頭以前にかたよっていて、一方で現代美術の割合が低い。現代の美術作品と相対したとき、たとえば「鋳造された青銅」を見たときに、まずは、日本における銅の造形の歴史をさかのぼり、自分の目で実際に見た経験のある、比較的遠い過去の時代の作例を想起するのはそのためである。現代美術について、少しくらい学術的な物言いができたら、とも思うが、大阪→東京→金沢と仕事を得て、大阪でも東京でもなく金沢で、現代美術を見る楽しさを覚えたばかりの私にはまだ荷が重い。それでも、見ることは楽しい。
Ⅴ
細部フェチの私がおすすめする畠山作品の鑑賞ポイントは、側面の四つの角、この角に見えるコンマ数ミリのわずかな面取りである。作品との距離10㎝以内に目を近づけなければ気がつかない、しかしきちんと面取られた角、その稜線から表層の風景を見渡してみると、誘い出された銅の色が今なお素材の材質的特性と人為のあいだでゆらぐ、そんな気がして見入ってしまった。よろしければ、お試しあれ。ちなみに私は見ているうちにプラハ国立博物館で釘付けになった何千もの鉱物標本やヨーロッパの教会でいつも凝視する多種多様な大理石の記憶をさまよい、しばらく日本に戻れなかった。
私もこの文章で参加する「adagio-心地よい出会い-」の展示は、ギャラリー点の金田みやび自身が心地よい出会いを実感した作家5名の作品で構成される。展覧会オープンの前日、展示がほぼ完了した会場を訪れた。扇田のガラス、金田の墨、畠山の青銅、藤原の陶、山村の漆。これら異なる素材による個々の作品が、視界のなかで隣り合い、ときに重なり合う。ガラスの・・・ 、墨の・・・ 、青銅の・・・ 、陶の・・・ 、漆の・・・ 。穏やかな時間が流れる空間のなかで、せっかちな頭が検索を始める。魅力ある作品は私の色々な記憶を呼び覚ましてくれる。そして同時に、目の前の作品が私の新しい記憶となる。
Ⅵ
今回の展覧会で私に与えられた役割は、私の作品の見方、私が作品を鑑賞しているときの内面を包み隠さず告白することである。しかし、じつは見栄張りなので真面目なことしか言葉にできていない。それに「もう少し作品に近づくために・・・」と題したものの、近づいているのやら離れているのやら。正直わからなくなるときもある。
―― 真に「作品に近づく」とはどういうこと? 難しいけど、いつもそれを願っている。