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長谷川清 個展
2009.10.23(fri)-11.04(wed)
12:00-19:00(最終日17:00)木曜休館
会期中連日、作家による「解説の会」開催 18:15〜18:45

長谷川清 
HASEGAWA Kiyoshi
 「これは一体何なのか」。“作品”と呼ぶことすら躊躇してしまうような、長谷川の作り出すものを目にした時、あなたは初めにこう思うだろう。しかし断っておくが、これはれっきとした美術の展覧会なのである。その最初の抵抗感を乗り越え、作品にぐっと近づいてみる。横から見ては下から覗き、寄ったり離れたりするうちに思いがけなく発見するおかしな仕掛け。作品の中に巧妙に仕組まれたいくつもの謎。全く分からず悶々と考え込む時もあれば、答えに気付いて世界の見方がほんの少し変化する瞬間もある。

 謎を正確に“理解する”ことが重要なのではない。作品と対話する中で考え、悩み、納得し、思い出し、時に忘れる。あるいはやはり作品の前を素通りする人もいるかもしれない。そういった全ての行為を肯定してくれるようなある種の“緩さ”がたまらない。長谷川の仕掛けはクイズやなぞなぞの類とは全く違う。作品の中に入り込んでみなければ、そのおもしろさは分からない。長谷川歴6年の私も、彼が忍ばせた謎を自力で解明したことなど未だないのだから。難解ではあるが、そのおもしろさに気付くため、彼の迷宮に皆一度は足を踏み入れてみるべきである。

                            山塙菜未
長谷川清展に寄せて
                       元金沢美術工芸大学大学院専任教授
                       筑波大学名誉教授         篠田守男

 芸術作品を観賞する場合、鑑賞者は作者と対等でなければならない。又、作者は鑑賞者とコミュケーションするための意味を作品に持たせてはならない。鑑賞者はある場合、作家以上の芸術概念を持ち、作品を通して作者とのコミュケーションを成立させていることが自然である。長谷川清は自作に意味を求められて苦汁を嘗めているようだが、もともとこれらに対して答える必要はないのである。何故ならば彼らは鑑賞者ではないからである。
 長谷川清の博士論文はレヴィナスの哲学を軸にすえ、漫画本「カイジ」の解析を試みているが、長谷川の「ワカラナイ」「無秩序」「無計画」といった、一見逆説のように見えるがそうではなく、実は作家が純粋に制作上に求めている概念なのである。この点が『賭博黙示祿カイジ』の中に長谷川は共通の概念を見つけたのであろう。長谷川の欲望もしくは渇望が、レヴィナスの云う『形而上学的渇望』として「カイジ」と結びついたものと考えられる。
 作品についていえば一般的美術作品の素材中心のとらえ方からみれば、模型のように映ってしまう。長谷川の作品を見るのに、すでにこの時点で作者と対等の鑑賞者ではないのである。
一点づつ完成を見るような従来の彫刻作品と同じように把えることは無意味であり、連続して提示される作品が常に長谷川作品という見方が正しいように思われる。