最初に出会うのは、階段の隅にうずくまる幼い少女。彼女の横をすり抜けて一歩一歩階段を上ってゆくと現れる、靴、テディベア。ひとつひとつ、少女が自分で選び、集めてきた大事な小物。自分を装い、憧れに近づくために。
やがて我々は、彼女の持ち物がひとつひとつ置き去りにされ始めたことに気付く。傘も、バッグも、テディベアもー。むなしく横たわる小物を目で追うと、ゴシックロリータの服装に身を包んだ現在の少女へと辿り着く。そこにいるのは少し疲労の色を浮かべ、前かがみで肩を落とした虚ろな表情の女の子だ。髪型も洋服も文句のつけようがないはずなのに、彼女は“なりたかった自分”の姿に疑問を抱いている。
伊藤が作品のモチーフとするのは、社会の中でいわゆるマイノリティーと見なされ特別視されている存在である。非現実的なまでに過剰な装飾が施された服装に身を包み、堂々と街中を出歩く彼女たちに対し、我々は“大胆、人目を気にしない、自分の好きなことをしている”といった固定的な見方をしていると同時に、ある種の羨望を感じてはいないだろうか。
ここではゴシックロリータ少女が比喩的なモチーフとして登場しているが、私は日常生活においてこの少女のような人間の存在をたびたび感じる。世間体や周囲の目や評価など一切気にせず、ひとり自分の志を守っている―思わずこちらが憧れの感情を抱いてしまうような人である。自分も同じ“自由さ”を手に入れるため必死で後を追うが、最後には、テディベアを買い、お人形のような髪型をして、フリルに身を包んで街に飛び出したとしても、誰かの真似をするだけでは本当になりたい自分を実現できていないことに気付かされる。
階段を上りきった時に我々が出会う少女の目には光がなく、そこに見られるのは自信ではなく迷いである。今、彼女は辿ってきた我が道をゆっくりと振り返り、そしてこれからの自分について思いを馳せるのではないだろうか。
山塙菜未